8/24/2004

日暮里繊維街

にっぽり繊維街はJR「日暮里駅」の噴水広場から右斜めに伸びる日暮里中央通り(バス通り)を中心に両側約1キロにわたり、和装、洋装、紳士・婦人服地、綿、プリント、合繊維物、ボタン、ビーズなどの生地織物に関する全ての商品を販売する61店舗が軒を連ねる地域である。「布の街」として知られるにっぽり繊維街は卸問屋街であるが現在ではほとんどの店舗が小売りをしており、その豊富な品揃えと安さに客層は専門業者、ソーイングが趣味の主婦、服飾専門学校の生徒である。最近ではこの地域に既製服の激安店も参入し、若い女性や学生で賑わっている。「ニポカジ」という新しいファッション・スタイルを考える店舗も増えており若い世代にも好評である。「ニポカジ」は「ニッポン カジュアル」と「ニッポリ カジュアル」の造語であり、日暮里(ニッポリ)を 日本(ニッポン)のカジュアルの中心にしたいという願いが込められている。「ニポカジ・スタイリスト」も増えつつある。

にっぽり繊維街は大正時代の初めに浅草界隈で営業していた古布や裁ち落としを取り扱う業者が「地域一帯を市街化する」という行政指導により当時まだ閑散としていた日暮里、三河島周辺へ移動して誕生した。ハギレ、裁落、2等品(B・C反)或いは 縫製工場から出る余剰反等を仕入れ販売をしていた。昭和12年の日中戦争と昭和16年の太平洋戦争により物資不足のため終戦まで営業を停止したが終戦とともに軍の隠退蔵物資、進駐軍の払い下げ品、アメリカ古衣料、羅紗裏地、ハギレ等の販売を再開した。昭和44年12月には東京日暮里繊維卸協同組合が結成された。約20年前の最盛期には約90店舗が軒を連ねたが不景気や裁縫人口の減少で今は約61店舗になっている。東京日暮里繊維卸協同組合はにっぽり繊維街の活性化事業の一つとしてにっぽり繊維街で生地を購入した人が参加できる服飾デザインコンテストを開催している。その名も「パリコレ」ならぬ「ニポコレ」デザインコンテストであり、若手のデザイナーが日暮里から誕生し、にっぽり繊維街が世界のファッションの発信基地になる日も近いかも。

にっぽり繊維街の散策には東京日暮里繊維卸協同組合が作成した「にっぽり繊維街マップ」が便利である。JR日暮里駅、駅前交番や店舗で無料配布している。駅付近の駐輪場の案内掲示板、通りや店舗には「布の街」「布の道」と書かれた旗が下がっているので目印になる。

にっぽり繊維街へのアクセスは日暮里駅(JR山手線、京浜東北線、常磐線、京成線)南口から徒歩3分、鶯谷駅(JR山手線、京浜東北線)北口から徒歩5分、三河島駅(JR常磐線)改札口から徒歩5分である。













にっぽり繊維街ついては東京日暮里繊維卸協同組合(日暮里繊維街)のホームページをご覧ください。


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8/13/2004

日暮里駄菓子屋横丁

上野、錦糸町とともに東京の三大駄菓子問屋街と呼ばれ、最後まで残っていた荒川区日暮里の駄菓子屋横丁は平成19年に開通予定の新交通システム「日暮里・舎人(とねり)線」の整備工事などに伴い、8月末で取り壊されことになった。日暮里の駄菓子屋横丁は終戦後の闇市で玩具や駄菓子を売る露店を一箇所に集められでできた。昭和27年の区画整理によって現在の路地裏の長屋のような店舗になり、昭和30年代から50年代は大繁盛した。駄菓子屋横丁、あるいは駄菓子屋問屋街の愛称で呼ばれているが正式名称は「日暮里菓子玩具問屋街」である。最盛期の50年代には97軒もの問屋が軒を連ね、関東各地の駄菓子屋が仕入れに訪れた。昭和27年に砂糖の統制が解除されると大手メーカーが競って菓子を増産し始め、更に少子化に伴い国内各地の駄菓子屋が次第に閉店するとともにここの問屋も急激に減少した。現在では7問屋が狭い路地の両側で軒を並べて営業している。8月末に2問屋が閉店するので残り5問屋が新しい再開発ビルの中で営業を行う予定。














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8/07/2004

荒川区ってなあに?

荒川区に住んで拾余年になる。住めば都であるが、友人、同僚や親族から「荒川区ってどんな所?」と聞かれるといつも的を得た簡単な答えが見つからず困ってしまう。そんな訳で荒川区について少し調べた。

(1)荒川区の誕生

江戸時代の現在の荒川区域は江戸の市街地に隣接していたが田畑を耕す農村地帯であった。畑の占める割合が多く、汐入大根、荒木田大根、三河島菜や谷中生姜等が有名。明治11年、東京府(現東京都)が15区と6郡の構成になったとき、現在の荒川区地域は当時の北豊島郡に属する10農村地帯の一つであった。昭和7年10月1日に大東京市35区制により、南千住、日暮里、三河島、尾久の4つの町が合併し東京府東京市荒川区となる。昭和25年に東京都の現在の23区制の一区になり、現在に至る。

(2)荒川区の地域

東京都の北東部に位置し、東西に長く、隅田川が荒川区の東北部をう回して流れ、これに沿って西尾久、東尾久、町屋、荒川、南千住の地域がある。台東区、文京区と北区、隅田川を隔てて足立区と墨田区に隣接する。荒川区の総面積は10.2平方キロメートルで、23区中21位。1位の大田区は59.46平方キロメートルで荒川区の約5.8倍。荒川区地域の大部分はほとんど起伏がない平坦な地域。南西部には山手台地の一部があり、通称諏訪台、道灌山と呼ばれる高台になっている。荒川区には西尾久、東尾久、町屋、荒川、南千住、西日暮里と東日暮里の7地域があり、区役所は荒川二丁目に位置する。

(3)区名の由来

荒川区の北東部を流れる現在の隅田川は、昭和39年までは荒川と呼ばれ、これが荒川区の名前となった。荒川放水路が現在の荒川となる前は、足立区との境界がこの荒川であった。隅田川というのはこの荒川下流部(現在の白鬚橋周辺から)の通称の一つであった。

(4)荒川区の人口

明治初期の荒川区の人口は約1万3千人に過ぎなかったが、大正12年の関東大震災の後に都心部からの人口の流入があり、第二次世界大戦に向けての軍需産業の増強により昭和18年には38万人強とピークに達した。東京大空襲の結果、荒川区の8割が焼失し、人口も14万弱に激減した。昭和35年には28万人強まで回復したがその後減少し続けた。昭和54年以降は人口の流出も横ばいになり、最近では増加傾向にある。平成16年7月現在の人口は18万9千人弱である。この内、外国人登録者数が人口に占める割合は7.12%であり、これは港区に次いで第2番目である。商店街でもキムチや朝鮮料理の食材専門店があったり、ハングル文字の看板が目立つ。荒川区の人口の特徴は老齢人口率(65歳人口率)が20%を超えており、今後高齢者福祉対策などが課題になる。

(5)荒川区の産業

明治政府の殖産興業政策により明治10年に官営千住製絨所、同16年に日本家畜市場株式会社・笠原工場群、同20年に大野製革工場と関連屠獣場などが南千住に建設され、荒川区の工業化が始まった。荒川放水路工事が大正10年に完成すると水害の問題も解決し、煉瓦工場、変電所、電化工場などに関連する企業が進出してきた。大正12年の関東大震災を契機として都心部からの人口の流入、工場の移転や新規建設などにより昭和に入って最盛期を迎えた。昭和5年には当時の35区の中で荒川区は工場数では紡績工業が第4位、金属工業が第2位、機械器具工業が第4位、化学工業が第2位、等など高い水準であった。昭和13年の国家総動員法により荒川区の企業も軍需産業に比重が移った。東京大空襲により産業設備の大半を焼失したが昭和38年には戦前の状態まで復興した。しかし、昭和30年代から50年代にかけて旭電化、鐘紡、東京製紙(現・ユニチカ)、千住製紙など11の大規模工場が荒川区から移転し、その中小下請け工場も影響を受け、昭和40年戦後から荒川区の産業の衰退が始まった。他方、荒川区の五大産業といわれた家具、鉛筆、自転車、既製服、皮の工場もその大半は下請け、再下請け工場などであったため、近年の経済事情や産業構造の変化により年々衰退している現況にある。現在の荒川区の産業構造はサービス業、金融・保険業、不動産業などの第三次産業を主とする都会型産業に移行しつつあるが、出版や印刷といった情報産業も増えている。









荒川区については荒川区ホームページをご覧ください。荒川区民の歌を聞くことができます。


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8/01/2004

足立の花火大会

足立区観光協会と足立区が7月29日夜に荒川河川敷で開催した第26回「足立の花火大会」でダイナミックな花火の打ち上げを満喫した。例年のとおり、尾竹橋通りの荒木田から尾竹橋、足立区の千住元町を通り、花火の打ち上げ場所となっている千住新橋緑地の堤防遊歩道を西新井橋から千住新橋方向に歩き、花火の打ち上げ基地の千住新橋側に陣取る。陣取るといっても、荒川の南側河川敷の緩傾斜堤防の斜面は既に例年の如く観客で満員になっており、堤防の遊歩道と斜面の境界に隙間を見つけて立ち見するだけ。「足立の花火大会」は大正13年に千住新橋の開通を記念して行われた「千住の花火」がはじまりであり、戦争等により一時中断したが、昭和54年に復活してから今年で26回目を迎える。花火大会は4部で構成され、打上花火、スタ-マイン、音楽花火、小型煙火、乱玉、仕掛花火(300メートルのナイアガラと文字花火)など約10,000発である。














足立の花火大会については足立区観光協会のホームページをご覧ください。


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