8/07/2004

荒川区ってなあに?

荒川区に住んで拾余年になる。住めば都であるが、友人、同僚や親族から「荒川区ってどんな所?」と聞かれるといつも的を得た簡単な答えが見つからず困ってしまう。そんな訳で荒川区について少し調べた。

(1)荒川区の誕生

江戸時代の現在の荒川区域は江戸の市街地に隣接していたが田畑を耕す農村地帯であった。畑の占める割合が多く、汐入大根、荒木田大根、三河島菜や谷中生姜等が有名。明治11年、東京府(現東京都)が15区と6郡の構成になったとき、現在の荒川区地域は当時の北豊島郡に属する10農村地帯の一つであった。昭和7年10月1日に大東京市35区制により、南千住、日暮里、三河島、尾久の4つの町が合併し東京府東京市荒川区となる。昭和25年に東京都の現在の23区制の一区になり、現在に至る。

(2)荒川区の地域

東京都の北東部に位置し、東西に長く、隅田川が荒川区の東北部をう回して流れ、これに沿って西尾久、東尾久、町屋、荒川、南千住の地域がある。台東区、文京区と北区、隅田川を隔てて足立区と墨田区に隣接する。荒川区の総面積は10.2平方キロメートルで、23区中21位。1位の大田区は59.46平方キロメートルで荒川区の約5.8倍。荒川区地域の大部分はほとんど起伏がない平坦な地域。南西部には山手台地の一部があり、通称諏訪台、道灌山と呼ばれる高台になっている。荒川区には西尾久、東尾久、町屋、荒川、南千住、西日暮里と東日暮里の7地域があり、区役所は荒川二丁目に位置する。

(3)区名の由来

荒川区の北東部を流れる現在の隅田川は、昭和39年までは荒川と呼ばれ、これが荒川区の名前となった。荒川放水路が現在の荒川となる前は、足立区との境界がこの荒川であった。隅田川というのはこの荒川下流部(現在の白鬚橋周辺から)の通称の一つであった。

(4)荒川区の人口

明治初期の荒川区の人口は約1万3千人に過ぎなかったが、大正12年の関東大震災の後に都心部からの人口の流入があり、第二次世界大戦に向けての軍需産業の増強により昭和18年には38万人強とピークに達した。東京大空襲の結果、荒川区の8割が焼失し、人口も14万弱に激減した。昭和35年には28万人強まで回復したがその後減少し続けた。昭和54年以降は人口の流出も横ばいになり、最近では増加傾向にある。平成16年7月現在の人口は18万9千人弱である。この内、外国人登録者数が人口に占める割合は7.12%であり、これは港区に次いで第2番目である。商店街でもキムチや朝鮮料理の食材専門店があったり、ハングル文字の看板が目立つ。荒川区の人口の特徴は老齢人口率(65歳人口率)が20%を超えており、今後高齢者福祉対策などが課題になる。

(5)荒川区の産業

明治政府の殖産興業政策により明治10年に官営千住製絨所、同16年に日本家畜市場株式会社・笠原工場群、同20年に大野製革工場と関連屠獣場などが南千住に建設され、荒川区の工業化が始まった。荒川放水路工事が大正10年に完成すると水害の問題も解決し、煉瓦工場、変電所、電化工場などに関連する企業が進出してきた。大正12年の関東大震災を契機として都心部からの人口の流入、工場の移転や新規建設などにより昭和に入って最盛期を迎えた。昭和5年には当時の35区の中で荒川区は工場数では紡績工業が第4位、金属工業が第2位、機械器具工業が第4位、化学工業が第2位、等など高い水準であった。昭和13年の国家総動員法により荒川区の企業も軍需産業に比重が移った。東京大空襲により産業設備の大半を焼失したが昭和38年には戦前の状態まで復興した。しかし、昭和30年代から50年代にかけて旭電化、鐘紡、東京製紙(現・ユニチカ)、千住製紙など11の大規模工場が荒川区から移転し、その中小下請け工場も影響を受け、昭和40年戦後から荒川区の産業の衰退が始まった。他方、荒川区の五大産業といわれた家具、鉛筆、自転車、既製服、皮の工場もその大半は下請け、再下請け工場などであったため、近年の経済事情や産業構造の変化により年々衰退している現況にある。現在の荒川区の産業構造はサービス業、金融・保険業、不動産業などの第三次産業を主とする都会型産業に移行しつつあるが、出版や印刷といった情報産業も増えている。









荒川区については荒川区ホームページをご覧ください。荒川区民の歌を聞くことができます。


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